御蔵島の文化と歴史 有吉佐和子の小説「海暗」

東京諸島の文化と歴史発掘

島嶼郷友連合会理事長 梅田 勉

平成二十五年島巡り旅行で御蔵島を訪れ、島の魅力に触れたことがきっかけとなり、島の文化と歴史に興味を惹かれました。御蔵島島名の由来は諸説ありますが、三宅島と御蔵島の間の深い海域の事を海暗(うみくら)と呼び、そのことが変化して御蔵(みくら)になったという説もあります。

有吉佐和子が御蔵島の「きよや旅館」に滞在し書き上げたのが「海暗」です。

時代背景は昭和三十年代。 島の歴史や文化を詳細に調べ、厳しい自然の中でたくましく生きる島民たちを生き生きと描いた小説が「海暗」です。その頃は大型船の着岸する桟橋はなく、荒海の中を決死の艀(はしけ)作業で月数回の定期船を迎えました。そうした環境の中、御蔵島に住む明朗闊達な八十歳のオオヨン婆さんが主人公です。若い人たちを圧倒する発信力、誰よりも島を愛する生き生きとした行動に感銘を受けます。

島の第一次産業は柘植(ツゲ)の栽培。子供が生まれると千本の苗木を植林するが、五十年経たなければ売り物にならず、しかも常時買い手があるわけではない。印材も櫛も昭和三十年代後半にはプラスチック製品に太刀打ちできない状況になっていました。

島には義務教育を終えた青少年を受け入れる仕事はなく、島は多くの難題を抱えていました。
カツオドリ(別名オオミズナギドリ)の繁殖が巣作りのため木の根っこを痛め、島の樹木がどんど ん枯れる被害もおきていた。政府は保護鳥としてカツオドリの採取を禁じていたが、御蔵島だけは 樹木や耕地を害するからという理由で、一年に三日間だけ島民に一人千羽の採取を許可していた。肉は柔らかく、カツオドリは島の人々の食生活でも貴重な動物性たんぱく源となり、さらに油は料 理にも灯火用にも使うことができました。

そんな島に突然「水戸射爆場の代替地に内定」のニュースが飛び込み、島は大騒動となった。全島民離島の情報まで飛び交った。村長、郵便局長、オオヨン婆さんを初め、島は一致団結してこの難 局に立ち向かったのです。

その成果があって、昭和三十九年五月防衛庁長官は閣議後の記者会見で「水戸射爆場の代替地としては不適当であり候補地からはずす」ことを宣言しこの事件は決着しました。

昭和三十年代後半の御蔵島の人々の葛藤が生き生きと描かれている。絶版になっていますが、大きな図書館には置いてあります。

是非ご覧ください。

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