私と新島の思い出

新島 東京諸島の文化と歴史発掘

新島郷友会 大沼 傳次郎

私が新島にいた昭和三十年代は大型船が着岸する桟橋はなく、前浜の桟橋は木材でした。定期船は、すみれ丸か椿丸で、本船から「はしけ」に乗り換えるときは波の上下動を使って乗り換えていました。

地引網で魚がたくさん採れて楽しかった記憶も蘇ってきます。桟橋の一番奥まで行き、カニやフグをいっぱい釣りました。家に持ち帰ると母親はカニを味噌汁に、フグは天ぷらにして食べさせてくれました。その美味しかった味を忘れません。

山に行けばワラビや木の実、あすなろ、やまもも、桑の実、あけび、うびなどがいっぱい採れて楽しい毎日でした。

羽伏浦の砂浜は真っ白で雪のようでした。周辺には潮風に耐えたきれいな花がいっぱいに咲き誇っていました。貧しい時代の大自然は私たちの遊び相手でした。その光景は現在も変わらず続いています。

さらに、新島では祖先を敬うことが生活の一部となっています。いつもお墓がきれいにされて生け花が堪えないことも自慢です。

私は昭和二十年生まれで兄姉三人の末っ子です。同級生は一組と二組合わせて六十五人ほどでしたが、残念なことに天国に召されてゆく方も多くなってきました。

私が就職するため、船で上京する折に一緒に乗り合わせたのが、当時の日本社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺した十七歳の山口二矢少年でした。山口少年はミサイル射爆場反対派のオルグ団の一人で、昭和三十五年十月、日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎を刺殺したのでした。浅沼稲次郎は三宅島の出身で、早稲田大学を卒業し日本社会党の書記長委員長を歴任しました。巨体と大きな声で全国を精力的に遊説する姿から、「人間機関車」の異名を取り、「ヌマさん」の愛称で親しまれました。伊豆諸島の誇りの一人です。

わが故郷もことのほか朝日と夕日がきれいな素晴らしい島です。他の島にはない風光明媚な観光スポットもたくさんあります。是非一度訪れてみてください。

その昔、定期船で島に帰るときは一晩かかりましたが、今はジェット船で東京から三時間で行くことができ、調布から飛行機も就航していますので便利になりました。今も時々新島の名産「くさや」を取り寄せては島を懐かしんでいます。クサヤと抗火石は世界に誇れ新島の名産です。

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