歴史と自然
伊豆諸島小笠原諸島の魅力
東京の島々
東京都には南へ2000キロメートルの日本の最南端である沖の鳥島まで太平洋の洋上に浮かぶ大小219の島々があり、すべて伊豆諸島と小笠原諸島に属している。東京都は我が国の領海12海里の約12%、排他的経済水域200海里の約38%を占め世界有数の漁場となっている。
伊豆諸島には、北から順に大島・利島・新島・式根島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島・青ヶ島の九つの島があり、島民が生活の基盤をおいている有人島で、さらに、その南にはベヨネーズ列岩、須美寿島(すみすじま)、鳥島、そう婦岩と続く。
小笠原諸島は、聟島(むこじま)列島、父島列島、母島列島からなる小笠原群島と、硫黄(いおう)火山列島(北硫黄島、硫黄島(いおうとう)、南硫黄島、西ノ島、南鳥島(日本の最東端)、沖の鳥島(日本の最南端)の島々からなっている。
伊豆大島
平成28年10月1日現在人口8,365人
竹芝から120km
伊豆大島は東京から南へ約120キロメートル、熱海から約46キロメートル、伊豆諸島最大の島である。北西から南東に長い平行四辺形で758メートルの三原山を有する火山島である。
元町の弘法浜に続く「湯の浜」海岸に、縄文時代早期初頭約8,000年前の住居跡が残っている。ここが伊豆諸島、小笠原諸島で最も古い下高洞遺跡(しもたかぼらいせき)である。
明治に入り伊豆諸島は韮山県の管轄下に編入されたが、明治9年伊豆諸島は静岡県に編入され、明治11年東京府に移管され、昭和18年都制実施により、東京都となった。
昭和61年(1986年)11月の三原山噴火で全島民が島外避難したときの人口は1万人であった、人口減少は将来を考えると深刻な状況であるが、この一年は少し増加している。
野口雨情作 波浮の港
野口雨情作詞、中山晋平作曲の「波浮の港」で一躍有名になった波浮港は火口湖でしたが、秋廣平六の指揮の元崖を切り崩し港口を広げ港になりました。湖のように穏やかで静かな美しさをたたえ、詩情豊かに歌われる野口雨情の詩「波浮の港」そのままです。
秋廣平六没後150年と記念像
秋廣平六没後150年を過ぎて、昭和47年(1972年)波浮港見晴台に等身大の「秋廣平六翁之像」が建てられた。平成12年(2000年)には開港200年を記念して、昭和39年(1964年)に大ヒットした都はるみの「あんこ椿は恋の花」の大きな歌碑が建てられ作詞者星野哲郎、作曲者市川章介、歌手都はるみらが出席して除幕式が行われた。
文学の散歩道 多くの文人墨客
与謝野鉄幹、晶子、大町圭月、林芙美子、幸田露伴、など文人墨客が思いを馳せた波浮港をもっと多くの人に知ってもらうため、「NPO法人波浮港を愛する会」(秋廣道郎理事長)の熱意と尽力によって三コースの「文学の散歩道」が造られ、作品を刻んだ小松石の文学碑が建てられている。
伊豆大島のギャラリー
利島
平成28年10月1日現在320人
竹芝から133km
利島のギャラリー
新島
平成28年10月1日現在
本村1,940人 若郷310人 計2,250人
竹芝から163km
新島から南へ4㎞の海には式根島が浮かぶ。
この2つの島、新島と式根島は、かつてはひとつの島であった。
元禄16年(1703年)の大地震と津波によって、今の形となった。
そして、それぞれの全く異なる魅力を育んできた。
江戸時代の伊豆諸島の特徴は、寛永8年(1668年)に流刑制度が敷かれていることである。
流刑制度は明治4年まで続き、新島には1,333人と記録されている。
新島の流人第一号は、天宥法印で山形県羽黒山の別当で宗教上の対立に敗れ、島流しを言い渡されている。現在は、新島と羽黒町(現、鶴岡市)は友好町村関係を締結し、交流を重ねている。
新島のギャラリー
式根島
平成28年10月1日現在530人
竹芝から171km
標高105メートルの火山島、一万年以上前に活動があったといわれている。リアス式海岸は大自然の芸術品。
838年の神津島天上山噴火、886年の新島向山大噴火以降降漁のための仮小屋や塩釜での塩づくりなど一時的に生活することはあったが定住は認めてこなかった。
飢饉を繰り返してきた新島の人々は非常時の庫島として人を住まわせず、大切に守ってきた島である。
明治22年(1889年)新島から8人が移住した。終戦直後の一時期は1,000人の人口があった。
現在は村営の連絡船で片道10分三往復運航されている。
昭和51年7月に新島からの4,360メートルの海底送水管で一日920トンの送水が始まった。式根島開島以来島民87年に渡る涙の悲願が達成された。自鉈温泉、足付温泉等海中露天温泉はケガやアトピーに効能があると言われる。
式根島のギャラリー
神津島
竹芝から178km
黒曜石の産地
神津島は、富士火山帯に属する火山島で、全島が流紋岩から形成、関東の黒曜石産出地は神津島、箱根である。石器として神津島産の黒曜石が使用されたことが確認されている。
太古から語り継がれる神々が集いし伝説の島
神々が伊豆の島々を作られたとき、第一の島を初島と名付け、第二の島に神々が集まりし詮議した島を神集島と名付けその後神津島と呼ばれるようになった。神津は神造りの意味と伝えられる。第三の島を大島、第四の島を新島、第五の島は家が三つ並びたるに似て三宅島、第六の島は御蔵島、第七の島は沖にありて沖ノ島、後に八丈島、第九の島はうの花に似たりと青ヶ島、第10の島は十島、後に利島となった。
伊豆諸島有数の景勝地
神津島は、伊豆諸島の中でもひときわ景勝地の多いところです。山と緑につつまれた起伏と変化の多い地形、青い海に映える白砂、青松、岩礁が織りなす景観がいたるところで見られ、絵画を鑑賞する趣である。
572メートルの天上山は、自然公園法の特別保護区に指定され、自然の生態系の保全を図っている景勝地となっている。
神津島のギャラリー
三宅島
平成28年10月1日現在2,620人
竹芝から180km
噴火史
平成12年6月に始まった雄山の火山活動で、全島民3800人が島外へ避難して、平成17年2月の解除まで四年半の間、住民登録0人の島となった。
20世紀以降でも昭和15年、昭和37年、昭和58年、平成12年と、ほぼ20年周期に四回の噴火が発生している。昭和15年の噴火では死者11名、昭和58年の噴火では、阿古地区で400棟が溶岩の下に埋没した。
島名の由来
古来から噴火が多く、神の造り給う島故に御焼島という尊称で呼ばれるようになった。また家が三つ並んだ姿に似ているところから三宅島と命名されたといわれている。
流刑の島
古代より伊豆の島々は、流刑地として多くの流人を受け入れてきた。三宅島も例外ではなく一説には2300人もの流人が流されてきている。主な流人に江戸の人気役者生島新五郎がいる。大奥の権力争いに発展した江島事件である。
三宅島のギャラリー
御蔵島
御蔵島の海岸は入江も砂浜もなく、玉石浜であるため海の幸を得ることが難しかったが、豊富な薪や、高価な銘木を算出し林業を主産業とした。太平洋上にありながら、生活の多くを森に求める山の民であった。
1729年(享保14年)御蔵島支配下より独立し伊豆代官所の直接支配となった。
1878年(明治24年)東京湾基線(現東海汽船)の蒸気船館山丸が入港した。東京湾汽船が伊豆諸島に進出した第一号船で、目的は島の木材輸送のためだった。
1863年(文久3年)米国籍の黒船バイキング号1349トンが座礁(中国人460名・アメリカ人船員23名)全員を救助した。幕末の混乱期に国籍を超えて人名救助したことはあまり知られていない。水戸射爆場の移転が御蔵島に閣議決定されたとき、バイキング号遭難救助事件がアメリカ人の心を動かし射爆場問題は急展開し御蔵島は候補地から外された。
御蔵島エコツーリズム
豊穣な自然の中でオオミズナギドリの営巣や、生い茂ったツゲやスタジーの木々が旺盛な生命力を見せ、島は彼らにはかけがえのない島です。自然との共存を目指し、平成16年度から島全体に「御蔵島エコツーリズムを」スタートし、認定された自然ガイドが同行しないと立ち入れない区域を定め、自然環境の保護に努めている。
黒崎高尾の海蝕岸
黒崎高尾の断崖は、高さ480メートルあり、日本一の海蝕岸を形成している。真上の展望台から覗くと、黒潮によって数千年かけ削り取られた断崖は見るものを圧倒する迫力にあふれている。
御蔵島の山林と源水
深い原生森におおわれ、独自の地形が生んだ気象条件から、多様な高山植物を楽しむことができます。伊豆諸島一水が豊富な島と言われ、豊かな森が育んだ水は、通常の二倍のミネラルを含んでいるため、まろやかで優しい味がします。山の湧水をそのまま販売している。
八丈島
平成28年10月1日現在7,490人
竹芝より287㎞
外観
高知県の室戸岬、長崎県佐世保市とほぼ同緯度である。
北の御蔵島まで87km、南の青ヶ島まで67km
三原山(東山)と八丈富士(西山)と二つの火山が接合してできている。人口は8,200人。
南洋諸島への進出
幕末から小笠原、その後鳥島、南大東島、サイパンなど南洋諸島に進出した歴史をもつ。
第二次大戦中本土防衛体制強化の中で、大規模に軍隊が進駐し回天、震洋などの特攻兵器が配備された珍しい地域である。
八丈方言
ユネスコは、平成21年消滅危機言語(日本全体で八言語)としてアイヌ語や南西諸島の方言などとともに八丈方言をあげた。使用する人口が少なく南西諸島より消滅の危機が高いといわれる。
流人
八丈島流罪の歴史は、宇喜田秀家に始まる。秀家は朝鮮の役の総帥となり、豊臣五大老筆頭となった。関ヶ原の戦いに敗れ34歳で八丈島に流された。長男、次男の他医者や身の回りの世話をする男女13人を伴ってきた。50年間生存し84歳で没した。
八丈島のギャラリー
青ヶ島
青ヶ島は、伊豆諸島で人々が生活している島で最も南の島です。東京から南へ358・4キロメートル、一番近い八丈からでも南へ74.1キロメートルも離れている「絶海の孤島」である。青ヶ島が文献に登場するのは、13世紀の初めごろ源為朝の活躍した「保元物語」に「為朝鬼が島に渡る、が最初である。
天明5年(1785年)3月10日に起こった大噴火は青ヶ島の姿を一変させた。青ヶ島では「青ヶ島の悲惨な現状を訴え203名が八丈島に落ち着いたが、140人が救助船に乗ることができず死亡、青ヶ島は無人島と化した。
文化14年(1817年)、島を脱出した時18歳だった佐々木次郎太夫(だゆう)は何度も嘆願書を出し復興開発に向けて準備を進め、天保6年(1835年)に元の青ヶ島に戻った。
実に半世紀を経てやっと故郷に還住したのであった。
柳田国男は「青ヶ島還住記」の中で、名主次郎太夫を「青ヶ島のモーゼ」と讃えている。昭和60年(1985年)に青年像を形どった「還住像」が青ヶ島小中学校近くに建てられた。
小笠原諸島
平成28年10月1日現在
父島約2,100人
母島500人
竹芝から950km
小笠原諸島の中で硫黄島に次いで二番目に大きく、平均気温は23度、一年間を通してとても過ごしやすいことが特徴である。小笠原固有の生き物が生息している。
南は日本最南端の沖の鳥島、東は日本最東端の南鳥島など30余りの島々から成り立っている。竹芝から小笠原丸で25時間30分、旅館民宿など62軒、料金は6,100円程度。
1593年信州深志城主のひ孫小笠原貞頼によって発見されたと伝えられている。最初に人が定住したのは江戸時代の1830年、5名の欧米系の人たちであった。1860年頃から日本移民が始まった。1876年に日基地本領土として認められた。戦前は南洋諸島への中継基地として重要な役割を果たた。1968年(昭和43年)23年ぶりに日本に返還された。平成23年(2011年)に小笠原諸島が世界自然に登録された。また平成25年(2013年)に海底噴火によって新島が現れ西ノ島と一体化した。
小笠原諸島のギャラリー
硫黄島
硫黄島は北硫黄島、硫黄島、南硫黄島の3島から構成される火山列島の中心に位置する。東西8km・南北4kmの島である。行政区分は東京都小笠原村に属している。父島から280km・東京から1,250kmで緯度的には台湾北部よりやや南に位置している。
島内の最高峰は169mの「すり鉢山」であり、島の至るところで硫黄温泉が湧き出し、硫黄ガスが立ち込めている。平均気温は24度、最高気温は40近い日もあり、6月中旬から10月上旬までは30度を超える日が多い。硫黄島は発見以来、火山活動が継続し、明治時代における最初の入植目的の一つが高山資源(硫黄)の採掘であった。
現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれており、基地関係者以外の民間人の全島への立ち入りが制限されている。このため小笠原諸島に属しているが小笠原国立公園からは除外されている。島名は、島のいたるところで見られる成分の硫黄に由来する。硫黄島の呼称は、戦前は島民と陸軍は「いおうとう」、海軍の海図では「いおうじま」としていた。アメリカ合衆国ではこの海図の表記に従い「いおうじま」としていた。旧島民およびその子孫などの間で「いおうとう」に統一するように要望があり、2007年に小笠原村議会で採択し、国土地理院へ要望し同年海上本庁の発行する海図でも「いおうとう」が正式表記となった。