東京諸島の伝統文化
歴史発掘 黒船バイキング号

歴史発掘 黒船バイキング号

御蔵島 ~黒船バイキング号事件~

元御蔵島郷友会会員
バイキング号記念碑
バイキング号記念碑

「よりびと」と言って漂流者を昔から厚遇する伊豆七島の人々、特に漂流者の多かった御蔵島の人々は「よりびと」 を厚遇した。太平洋で最も過酷と言われる御蔵島と三宅島の海域での遭難に、御蔵島島民は人道的立場から国籍を超えて決死の覚悟で海に飛び込み480名全員を救助したのである。

 

文久三年(一八六三年)六月四日、川のように速い黒潮の流れ、霧の立ち込める朝方、事件は御蔵島の現在の港がある付近で起こりました。巨大な黒船が横付けするように泊まっていた。それがアメリカ船籍バイキング号であった。島の人々は黒船の異様な姿に恐怖を感じたに違いありません。甲板上の身ぶり手振りのやりとりから、ようやく黒船は軍艦ではなく商船で座礁していることが判明した。

 

当時のアメリカはゴールドラッシュ、採掘のためサンフランシスコでは低賃金の労働者が必要とされ、バイキング号は香港で労働者を雇い入れサンフランシスコに帰る途中でした。島民は決死の覚悟で海に飛び込み、救助のはしけをバイキング号に近づけようとしたが、救助に来た島民に向かって米国人船長は短銃を発砲するなど一時は騒然とした。それでも御蔵島の人々は人道的立場から国籍を超えて当時60戸あった家の30戸を提供し全員を救助したのである。

このことは近年までほとんど知られていなかった。当時の村民が250名だったのに対して、漂着した人は中国人460名、米国人船員2名であった。

 

昭和35年(1960年)から御蔵島の植物研究をしていた東京大学の高橋基生理学博士は島では算出しない花崗岩と奇妙な灯籠を神社で見つけバイキング号の遺物であることを発見、博士の調査によってバイキング号の母港ニューベッドフォード市の船だとわかった。

このころ米軍水戸射爆場の移転が御蔵島に決定されたことを聞いた博士はすぐ行動を起こした。

バイキング号遭難救助事件が必ずアメリカ人の心を動かすと考え、遭難事件の顛末書を当時のライシャワー駐日大使とロバートケネディ司法長官に送った。すぐに二人から協力する旨の快い返事が寄せられた。射爆場問題は急展開し御蔵島は候補地から外された。このとき博士の提案でニューベッドフォード市民が募金活動を行い同市と御蔵島にバイキング号記念碑が建立された。その後、御蔵島では博士の徳を偲び記念碑横に顕彰碑を建立すると共に「自然のなかに人生がある」という記念誌を刊行してその功績を讃えた。

連合会だより11号より