『絵島・生島事件』と新五郎のお墓

生島新五郎の墓 東京諸島の文化と歴史発掘

三宅島郷友会 笹本 義男
郷友連合会だより17号(2022年)より

『絵島・生島事件』は正徳4年(一七一四年)、 徳川7代将軍家継の生母 「月光院」が大奥で絶対的な権力者として君臨していた時代に起こった。月光院付きの御年寄り「絵島」が江戸山村座の人気歌舞伎役者「生島新五郎」と情を交わしたとして幕府に断罪された。絵島は月光院の助命嘆願もあって死刑は免れたものの、信州伊那・高遠藩に永久預けの幽閉処分となり、かたや生島新五郎は伊豆七島・三宅島に罪人として遠島・配流され、かの地で生涯を終えた。現在、新五郎は三宅島伊ヶ谷にあるお墓に眠っている。至って表層的な筋立てだが、これが世間で言われるところの『絵島・ 生島事件』の概略だ。当時、絵島の権勢は大奥を傾けるほどで あったようだ。

●お墓の疑問
ここに記すのは、事件の一方の主役である「生島新五郎」についてである。私の故郷「三宅島伊ヶ谷」にこの「新五郎のお墓」が建っているのだ。

生島新五郎の墓

ある歴史雑誌に某大学の教授が、三宅島のお墓に眠っているのは誰なのか?と疑問を呈していた。というのは「新五郎」は後に三宅島から八丈島に流されたと伝えられ、あるいは最終的に江戸帰りが許されて本土で没したなどの諸説あるという。これが事実ならお墓に疑問を抱くのは当然だ。だが事実「新五郎」は、ある時期まで伊ヶ谷地区で私の母の生家・笹本家のお墓に埋葬されていたのだ。生家では、永年そう言い伝えられており、同家の古びた過去帳にもその記載があった。私も十代のころ過去帳を見ている。個人的には当然真実と確信している。

今、新五郎のお墓は、風雪に洗われた極素朴な笹本家のお墓から独立(分骨)し、伊ヶ谷の海辺に雰囲気あるものが建っている。折に触れ観光客が訪れ、島の観光振興に寄与しているようだ。昭和四十年代離島観光ブームが三宅島にも押し寄せた。その折村の行政当局が、三宅島の将来的発展のための活用素材として『絵島・生島事件』の「新五郎」に着目し、現在の場所に新しく建立したも のだ。

ところで、まだ疑問に思うのは、幕府から罪人として流罪された「生島新五郎」が何故、島民のお墓に埋葬されていたのかである。笹本家には明確な資料やエビデンスはない。僅かな時代的記録を拾い読みしてみた。享保八年(一七二三年)、 島役所(陣屋)が別の地区から伊ヶ谷に移ったと記録がある。

陣屋は江戸幕府の支配にあって一般行政の他、流人について一定程度の裁量権を有した。この伊ヶ谷陣屋と笹本家に何らかの接点があり流人「新五郎」と関係したのではと個人的に推測している。

今、三宅島の母の生家は、無住となり親類縁者も少なく、私が行き来するのは不便な状況だ。極まれに帰島し、お墓参りをすると「新五郎」の墓前にも手を合わせ、故郷三宅島がいつまでも元気であることを願う。大見得を切って願いを受け止めてくれるか、あるいは、怨念を胸に顔をしかめて いるか?新五郎にとっては迷惑なことであろう。

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