歴史発掘 第一回
御蔵島
元御蔵島郷友会会員
島巡り第一回 利島旅行での思い出
平成十五年五月十六日、団体見学が終了し自由行動の時間となり利島小中学校を見学した。
その時学校の資料室内に利島出身の「彦四郎氏」が江戸時代、御蔵島で船の操船技術を指導したと記され「彦四郎氏」が葬られている墓石の写真が展示されているのが目に留まった。それは江戸時代に御蔵島が三宅島から独立した際大変尽力された「奥山交竹院」のお墓のそばにある墓石であった。私は幼少の頃より「奥山交竹院」のことは知っていたが、利島旅行からしばらくして帰省した折、古文書と古老に接する機会を得てその詳細を知る事ができた。
彦四郎氏と御蔵島の廻船
一七二四年頃、御蔵島は人口が増え、南部方面の農地を開拓しても農作物が不足したため島の外から食料を買い入れるための資金が必要となった。桑、ツゲ等を切り出して江戸に出荷するため船の購入が必要となり代官所に申し出、翌年これが許可されて御蔵島は廻船を持つことになった。一七二六年、「彦四郎氏」は「利島の十郎右衛門」の五人乗り持ち船(うち一人は操船指導者)を購入し操船指導にあたった。郷里での言い伝えによると、「彦四郎氏」の亡骸は御蔵島に眠ってはおらず不明である。後年御蔵島の青年たちは「彦四郎氏」は当時帆船の指導行い、我が島に尽くした方であることを知り御蔵島の大恩人「奥山交竹 院」の眠るお墓の傍に墓石を置き氏の神塔として敬ったのです。
御蔵島の独立と奥山交竹院
一七二九年頃、廻船を持った御蔵島は三宅島の属領ではなく、代官所の直轄となるよう代官所に申し出たが一筋縄ではいかなかった。このとき御蔵島では江島生島事件で流罪となり御蔵島に来ていた奥山交竹院に相談したところ江戸城内の友人に取次を依頼。その結果、奥山交竹院の死後ではあったがその友人の取次により三宅島からの独立を果たしたのである。当時流人は墓地の隅に埋葬することが一般的であったが郷里の大恩人である奥山交竹院は墓地区域の上流地に埋葬されている
江島生島事件と奥山交竹院
江戸時代中期、江戸城大奥の御年寄江島が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり関係者多数が処罰された。江島の遊興相手とされた生島は三宅島に、大奥御殿医の奥山交竹院は御蔵島に遠島処分となった。
連合会だより11号より