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歴史発掘 第二回 – 東京島嶼郷友連合会
東京諸島の伝統文化
歴史発掘 第二回

歴史発掘 第二回

船頭彦四郎の物語

郷友連合会 理事長 梅田 勉
利島
利島の全景
左が彦四郎、右が奥山交竹院の墓塔

利島郷土資料館に彦四郎の墓碑の写真と功績を記した説明書きが展示されている。

彦四郎は利島の大沼家に生まれて御蔵島に渡り航海術を伝えた。
18世紀の初め、第八代将軍徳川吉宗によって主導された享保の改革の頃である。

説明書には、当時三宅島の支配下にあった御蔵島の独立と、江戸、御蔵島間廻船の村営化に貢献したと記されている。
文献によると、彦四郎は御蔵島独立のために働いたが、享保13年11月 (1728年)三宅島に渡った後に悲惨な最期を遂げたと伝えられる。

当時、御蔵島では人口が増え農地開拓をしても農作物が不足し、食糧問題が深刻で暮らしが壮絶であったことと、三宅島の支配から脱するため山の桑、ツゲ等を切って内地へ輸出して資金を作り、島の外から食糧を買い入れる必要があった。

しかしながら、御蔵島には江戸と往来できる船はなく、享保9年(1724年)代官役所に廻船を所持することを願い出て翌年許可され、利島の重郎衛門から5人乗り八反帆の古船を買い受けることとなったが、御蔵島には船を操縦できる者がいなかった。そこで利島生まれの彦四郎にお願いし御蔵島島民に航海術を教えた。御蔵島では明治になって島の独立に功績のあった奥山交竹院他の墓碑を建設した折、その側に御蔵島の恩人として「利島之彦四郎の碑」を建て功績を不朽に伝えることとしたのである。

 (注記)この記事は利島村教育長 山口順一様からの提供資料を梅田勉が整理引用したものです。

連合会だより12号より