神津島郷友会会長 山田 惠照
(1)友好都市盟約書

神津島村史によると長野県佐久市に約三〇〇戸の「神津」という姓を名乗る家があることを聞き昭 和五十一年十一月松本村長他二名が佐久市を訪れたところ、墓地にこのことを証明する大きな碑が あることが判ったのでこれを調査した、とある。
「碑文」には「神津氏大祖八大職(社) 中臣鎌足公後裔下総領主藤原秀卿末裔藤原定国伊豆七島を鎮領シ神津島ニ居ル・・・略・・・」 ※藤原秀卿は平安時代中期の人
藤原氏一族が神津島に何故渡ったのか神津島を離れる時神津姓を名乗ったのは島を忘れないためか、藤原姓を名乗らなかったのは何故か、神津島には藤原姓は一軒もなし。村は江戸時代と明治時代に大火がありお寺も過去帳も消失した。昭和五十四年七月に、佐久市の神津同族会から神津武士市長以下多数来島した。友好が深まると共により以上の絆を結ぶべきであるとの気運が高まり、三浦大助佐久市長と山下繁神津島村長との間で友好都市の盟約書を締結した。平成六年三月二十四日であった。互いに訪れあってから十七年目であった。それから佐久市との交流は神津島の小五~中一の児童生徒約二十名がスキー教室に参加し、八月には佐久市より約九十名のスタッフと児童が「佐久っこ道場」として来島し、泳いだりして楽しんでいる。毎年五月五日の鯉まつりに島側から出席したり、物産展を開催している。
(2)神津島村・奥多摩町友好交流協定書
奥多摩町と神津島村との関係は昭和二〇年(一九四五年)七月太平洋戦争末期における神津島から奥多摩町への強制疎開があり、一一二世帯五六七人を受け入れて頂いたことが始まりである。敗戦から七三年、当時の記憶もうすれ、これまでの経緯を知る人も少なくなった。これからの世代を担う子ども達の為に、歴史を繋げ、更なる交流を通じて産業・教育・文化の向上を目指します。お互いに長期展望に立って友好の絆を深め、両町、村の発展と平和を願い二度と戦争を起こさないという思いから友好交流の協定が、平成二十九年十月二十九日、締結された経過が記されている。青梅線古里村で生まれた子、こり枝さんも七十三歳になった。現在は双方の子ども達が交流体験や奥多摩ふれあい祭りでの交流物産展や両町村議会の相互視察が行われている。
※この記事を書くにあたり神津島村役場清水庶務課長さんより資料を頂き参考にしました。
(文責 山田)
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