火山島・青ヶ島全島避難の軌跡 NHK『英雄たちの選択』に出演して
順天堂大学 土屋 久
郷友連合会だより20号(2025年)より
~一本の電話から~
青ヶ島村教育委員の荒井智史さんから電話が掛かってきたのは、本年(令和六)五月中旬のことでした。 今度、NHKの『英雄たちの選択』という番組で、青ヶ島の「還住」の歴史を特集するから、 先生(土屋のこと)が青ヶ島研究者の代表として番組に出演してくれないか、との依頼でした。私は、確かに、ここ二〇年ほど青ヶ島の民間信仰を中心に研究をおこなってきました。ですが、これまで長いこと島を研究されてこられた先達の方々がおられる中で、私ごときが代表として出演してよいのか、正直迷いました。しかし、荒井さんの熱意に背中を押されるような形で、最終的には出演を快諾いたしました。
青ヶ島は、その「孤島性」から、あるいは、驚嘆すべき自然の造形から、テレビ番組には度々取り上げられてきております。そうした番組を、実際にご覧なられた方も多いかと思います。ところが今回は、還住を本格的に扱うことがこれまでの番組の内容と大きく異なるところです。還住については後ほど詳述しますが、青ヶ島で江戸時代の後期に起こった火山の大噴火により、八丈島に全島避難した島民が、半世紀の末に島に戻った出来事のことを指します。このことを青ヶ島の方々は、とても誇りにしているのですが、この歴史を正面から扱ったテレビ番組はこれまでなかった、先の荒井さんや、現青ヶ島村教育長の田中さんは指摘されていました。どちらかといえば、興味本位に流れる傾向のあるテレビ番組が多い中で、『英雄たちの選択』は、青ヶ島の歴史・文化を正面から扱おうとする、画期的な番組と思われました。
また、青ヶ島村では、青ヶ島村文化保護審議会が開催され、サクユリが青ヶ島村指定文化財に指定されました。本年度(令和六)には、オオタニワタリと「旧名主・佐々木家文書」が新たに文化財の候補に上がり、八月には指定を受けました。後者は、還住の立役者の一人である佐々木次郎太夫の末裔佐々木家に伝わる「青ヶ島諸覚」「八丈島小島青ヶ島年代記」「青ヶ島大概帳」註の総称です。この中の一つである「青ヶ島諸覚」には、青ヶ島の噴火と還住の経緯が詳細に記されていま す。こうした動きもあり、NHKの番組は、とてもタイムリーであったことを付言しておきます。
~還住とは~
前項で若干触れましたが、江戸時代の末、青ヶ島では大きな噴火により、全島民の八丈島移住がおこなわれ、半世紀を経て故地への帰還を果たします。ことの経緯を、先の「青ヶ島書覚」を紐解きながら、以下、年表風にまとめてみました。
安永九年(一七八〇)
池之沢(青ヶ島の地名)で塩分を含んだ湯が湧き上がり、水面がmから十一m上昇。名主七太夫、神主豊後が注進のため出島
天明三年(一七八三)
大地震、大爆発。池之沢で男十一人女三人焼死
天明五年(一七八五)
最大の爆発。昼でも暗い日が八日間続く。島民は八丈島に全島避難し(「天明の別れ」と称される)、 ここから五〇年にわたる、帰島への苦難の歴史がはじまる。
寛政元年(一七八九)
名主三九郎ら十二人が青ヶ島を調べに赴く。
寛政四年(一七九二)
三九郎ら二〇人が青ヶ島に戻り、うち十二人が島に残る。三九郎らは八丈島に戻る。ノネズミの被害甚大。
寛政五年(一七九三)
青ヶ島の残した者の内、五名が八丈島に向かうも行へ不明。
寛政六年(一七九四)
食料の乗せた船が青ヶ島に向かうが、房州に流される。
寛政九年(一七九七)
三九郎ら一四人が青ヶ島に向かうも、紀州二木島へ流され、三九郎を含めた十一人が亡くなる。
享和元年(一八〇一)
青ヶ島に残り八年間島の再興に苦闘した七人が八丈島に戻り、以後、一六年間、青ヶ島は無人島となる。
文化一四年(一八一七)
佐々木次郎太夫が名主となり、還住へ新たに動き出す。
文政七年(一八二四)
八丈島仮住居の青ヶ島の人たちが、残らず青ヶ島に戻る。
天保六年(一八三五)
青ヶ島の耕地が整い、検地がおこなわれる。還住の完成。
天明五年の大噴火からすぐに、青ヶ島還住の動きはあったものの、ノネズミの被害や、青ヶ島と八丈島の間を流れる激しい海流に阻まれ、名主の三九郎をはじめとした多くの犠牲者が出ました。年表には書ききれませんでしたが、青ヶ島に送った船は一〇回では数えきれません。そうした中、八丈島に避難していた青ヶ島出身者をまとめて、帰還への計画を立て、それをとうとう実現させたのが、名主佐々木次郎大夫という人物でした。今回のNHKの番組では、この次郎太夫を「英雄」と位置付け、彼の事績を中心に、還住を描いていくという構成になっていたのです。
~二〇一三年から始まった「英雄たちの選択」~
『英雄たちの選択』は、 二〇一三年五月三〇日からNHK BSプレミアム(二〇二三年十二月よりNHK BS)で放送されている歴史教養番組です。
日本の歴史に名前を残した人物が、人生の選択を迫られた際に何故そちらを選んだのか、選択するまでの様々な葛藤を追いながら、短編仕立てのドラマや、アニメーションを使って再現していきます。また、ゲストや司会者が、もし自分であればどちらを選択するかを各自、その理由とともに発表していく流れとなっています。
本年七月二十二日の回(再放送あり)では、青ヶ島の還住がテーマとなり、先の次郎太夫が「英雄」として取り上げられ、青ヶ島に還るか否かが、「人生の選択」となったわけです。次郎太夫が名主として登場したのは、天明の別れから既に三〇年ほど経った文化一四年のことです(年表を参照)。三〇年という年月は、島の草木を噴火災害から回復させ、また、この頃には火山灰などの被害もある程度落ち着いて、帰還への環境が整いつつあった時期のように思われます。しかし同時に、避難先の八丈島で産まれた子どもも増えてきていて、故地への帰還を望まない人も出てきていたかもしれません。青ヶ島に還るとしたら、この時が多分ラストチャンスだったのではないでしょうか。その様な中で、次郎太夫は、厳しく喧嘩を諌め、繰り返し仲良くすることを説きます。同時に、各々に 細かに役割を与え、その役職に励むことを指示します。このように避難先の人たちの結束に苦心し、また、青ヶ島渡海に適した日和の時期を徹底的に研究します。そして、とうとう名主になってから約七年後の文政七年に、「仮住居」に居た人たちを率いて、青ヶ島への帰還に成功するのです。 民俗学者の柳田國男は、この偉業を讃えて、次郎太夫のことを「青ヶ島のモーゼ」と呼んでいます。偉業の背景には、もちろん三九郎をはじめとした先人たちの遺産があるわけですが、柳田の言は宜なるかな、と思われます。
番組の収録は砧スタジオでおこなわれました。司会で歴史学者の磯田道史さん、NHKのアナウンサーの浅田春奈さん、防災研究者の山村武彦さん、そしてタレントの篠原ともえさんが当日のメンバーです。ちなみに篠原さんは、青ヶ島にルーツをもつ方です。私は、島で神事の調査をおこなう際、彼女のお祖母様に大変お世話になりました。番組終了後には、篠原さんから青ヶ島の「ひんぎゃの塩」を出演者各々が貰いました。また、お祖母様が造られた「あおちゅう」の古酒を、皆さんでいただいたのはよき思い出です。
番組中、それぞれが「人生の選択」にどのような答えを出したのか、それはNHKのオンデマンドを見ていただければと思います(数百円かかってしまいますが…)。
最後に、蛇足ではありますが、番組のプロデューサーがとてもよく還住の歴史を勉強されていたのには驚きました。
~おわりに~
本年、「青ヶ島諸覚」とともに青ヶ島村指定文化財となった史料に「八丈島小島青ヶ島年代記」があります。ここには、八丈島、八丈小島、青ヶ島の三島で起こった数々の災害が記載されます。火山の噴火だけでなく、飢饉や船の難破などの危機的な状況が淡々と語られています。それを読んでいますと、島という資源が限られた地域で、そこにあるものをとことん利用して、乗り越えてこられた先人の姿が浮かび上がってきます。もし、災害対応に失敗していたら、島は壊滅しているわけですから、これまで、一度たりとも、危機を乗り越えることに失敗したことがないということになります。
ところで、若干話は変わりますが、近年、災害と絡めて、レジリエンスという概念が使われることが多くなってきているようです。以下、この概念の説明を『レジリエンスの諸相』から引いてみたいと思います。
大災害を受けても押しつぶされることなく「しなやかに」復興することができる力として、「災害レジリエンス」という概念が生まれている。これは突発的な災害に対する、防災・減災の考え方のひとつである。そもそもハード対策による強固な備えには限界があり、様々な知恵を総動員して被害を軽減させたいという願いがこの言葉に込められている。
この「力」は、まさに様々な災害を乗り越えてきた、先の三島にみられる力でしょうし、また、伊豆諸島の島々共通にみられる力だとも思います。青ヶ島の還住は、この力の現れの象徴と言えるのではないでしょうか。「離島は日本の雛形」と言われますが、近年の災害が多発する日本の状況に鑑みて、還住は、一離島の出来事としてだけ捉えるのではなく、日本全体で共有すべき事績であると考えます。
【参考文献】
『青ヶ島の生活と文化』青ヶ島村教育委員会
『青ヶ島還住記』柳田國男
『レジリエンスの諸相―人類史的視点からの挑戦―』放送大学
『わたしたちの青ヶ島(改訂版)』青ヶ島村立青ヶ島小・中学校社会科副読本改訂委員会編集
【註】
「青ヶ島諸覚」
この「青ヶ島諸覚」には、宝暦九(一七五九)年二月から天保十一(一八四〇)年三月までの記録が収められている。その内容は、青ヶ島から八丈島役所へ差し出した諸届、願書その他の控である。この史料は、八丈島役所に保管されていた「控」を写したものであり、青ヶ島の還住の歴史が記された青ヶ島唯一の史料である。
「八丈島小島青ヶ島年代記」
「八丈島小島青ヶ島年代記」は数種確認されており、本史料は旧名主佐々木家に伝わる写本であるため「青ヶ島本」と通称されている。内容は一五世紀半ばから、一九世紀半ばまでの約四〇〇年にわたる八丈島、八丈小島、青ヶ島の断片的歴史が書かれたものである。内容の過半は、天災による地震・津波・風水害・噴火・漂流・飢饉などの記事で、あとの約半分は、人災による疫病、流人・貢税などの他にそのつどそれらの天災・人災に対処してきた島人達の功罪を粉飾を加えずに記載している。「青ヶ島本」は他のものに比べて記述が正確で、記載量も多いため、八丈島、八丈小島、青ヶ島3島の歴史の概要を知るには、まとまった文献といわれ る。
「青ヶ島大概帳」
表紙に「青ヶ島大概帳」と記された「反別帳」(土地の所有者、所在地、面積、年貢の額等の台帳)である。これにより、記録された時点での青ヶ島の生産力の規模を推定することができる。本史料の作成年は記されていないが、記述されている内容から、「天明の別れ」(天明五(一七八五)年)以前の土地の記録と考えられる。
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