島嶼郷友連合会 梅田 勉
郷友連合会だより20号(2025年)より
大島波浮港村が生んだ偉大な作詞家
宮川哲夫は一九二十二年(大正十一年)大島波浮港村網元の長男として生まれ、東京府豊島師範学校を卒業後大島差木地国民学校教諭として赴任しました。その後昭和二十五年作詞家を志して上京、夫人と幼い子供たち三人とともに現在の町田市に転居、忠生小学校で教鞭をとりながら作詞家修行をした。町田市は市町村合併がすすみ、いまでは人口四十三万人を超える都市ですが、宮川哲夫が家族とともに移り住んだ地域は、当時はまだ南多摩郡忠生村と呼ばれていました。住民のほとんどは農家で藁ぶき屋根の家々が雑木林に埋もれるように散在していた。宮川家が間借りしたのは板塀を張り巡らせ門構えの大きな屋敷の離れ。哲夫は一年半ほど地元忠生村の小学校で教えたのち、世田谷小学校に転勤、小田急線で通勤している。

終戦から八年が過ぎ日本は活気と賑わいを取り戻し、銀座ではサンドイッチマンが目を引いた。哲夫はおどけて見せるサンドイッチマンの哀しみを歌にした。吉田正が曲をつけ、鶴田浩二が気に入って歌った「街のサンドイッチマン」は大ヒットした。この歌の持つ哀感がサラリーマン心理とどこか重なり合ったのではないかと言われています。
ロイド眼鏡に燕尾服
泣いたら燕が笑うだろ
涙出た時や空を見る
サンドイッチマン
サンドイッチマン
俺らは街のお道化者
とぼけ笑顔で今日も行く
ピエロのとぼけ顔に哲夫は哀しみをみていた。いったんどん底をみた人間が体を張って生きて行こうとする姿が浮かび上がる。それが人々の琴線に触れた。宮川哲夫三十一歳。この曲のヒットにより、昭和二十九年哲夫は十二年間の教師生活に別れを告げ世田谷小学校を退職してビクターの専属作詞家となった。
続いて昭和三十年、「ガード下の靴磨き」が宮城まり子の唄で大ヒット。
紅い夕陽が
ガードを染めて
ビルの向こうに沈んだら
街にゃネオンの花が咲く
俺ら貧しい靴みがき
あぁ夜になっても
帰れない
昭和三十年は電気冷蔵庫、テレビジョン、電気洗濯機が三種の神器となって新しい時代の幕を開けた。渋谷駅や有楽町駅の「ガード下は大勢の人たちが待ち合わせに使う場所でもあり、そこには必ずといって良いほど靴磨きの姿があった。」急 激に変貌してゆく社会の哀感や人々の心情をとらえる宮川哲夫の世界がありました。繁栄に向かって走り始めた社会から抜け落ちた世界が「街のサンドイッチマン」と「ガード下の靴みがき」だったのです。
戦後日本の消費水準がほぼ戦前のレベルまで復活するのが昭和二十九年、そのあたりから日本は成長期にむけて助走に入り、高度成長へと離陸して行く。それは日本人の伝統的な生活様式が根底から変わっていった時代でした。
昭和三十二年に発売された、フランク永井の「夜霧の第二国道」はマイカー時代を先取りしている。
つらい恋ならネオンの海へ 捨てて来たのに
忘れてきたに バックミラーにあの娘の顔が
浮かぶ夜霧のああ第二国道
昭和三十三年~三十四年にはフランク永井の「羽田発七時五十分」「公園の手品師」「夜霧に消えたチャコ」、昭和三十六年には渡辺マリの「東京ドドンパ娘」、佐川ミツオの「背広姿の渡り鳥」、昭和三十八年には三田明の「美しい十代」などが次々に大ヒット。
白い野ばらを捧げる僕に
君の瞳があかるく笑う
いつもこころに二人の胸に
夢を飾ろうきれいな夢を
美しい十代ああ十代
抱いて生きよう幸福の花
昭和四十一年橋幸夫の「霧氷」ではレコード大賞を受賞した。
霧氷… 霧水…
想い出はかえらない
遥かな遥かな冬空に消えた恋
霧の街角で告げたさよならが
僕を僕を僕を泣かす
戦前から戦後へと大きく価値観が変容するこの時代にあって揺れ動く宮川哲夫の心を支えていたのは詩作への情熱でした。都市の片隅で生きる人々の悲哀や貧しさを歌った彼の詩作は次々とヒットしたが魂で詩を書いたと言われています。そこにはヒットメーカーとしての重圧と苦悩もありました。
町田市民文学館に遺構や蔵書が保管されていることを知り尋ねてみました。時代を色濃く映し出す昭和歌謡の中で宮川哲夫が遺した数々の作品は昭和四十九年に五十二歳の若さで死去するまで八百五十作がレコード化されています。大島波浮港が生んだ偉大な作詞家は今も色あせることなく輝き続けていることに感銘を受けました。三女の浅見洋子様、並びに町田市民文学館の許可を得て連合会だよりに掲載しました。
〈参考にした著作等〉
・公園の手品師(遺構)
・街のサンドイッチマン(辻由美著・筑摩書房)平成十七年発売
・平成十五年五月二十四日朝日新聞記事
・平成二十七年四月十八日〜六月二十八日町田市民文学館開催
昭和の街角を歌で綴る宮川哲夫展リーフレット等を随時引用した。
・資料提供
町田市民文学館
房 文子(波浮港出身)
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